PROFILE

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小長啓一弁護士

小長啓一弁護士

当事務所に在籍する小長啓一弁護士は、田中角栄通商産業大臣及び内閣総理大臣の秘書官を務め、日本列島改造論の取りまとめ役であったことからそのゴーストライターとも称され、また、日中国交正常化の際の生き証人でもあります。去る2022(令和4)年は、日本列島改造論出版50周年かつ日中国交正常化50周年であったことから、小長弁護士は、しばしばマスコミ等の取材を受け、講演会での講演も多数に上りました。この機会に、改めて小長弁護士の半生と田中角栄元総理とのエピソードなどをご紹介します。

経済産業省入省までの足跡

総理官邸内秘書官室にて
総理官邸内秘書官室にて

小長啓一弁護士(以下「小長」)は、1930(昭和5)年、岡山県和気郡(現:備前市)生まれ。

13歳で大阪陸軍幼年学校に入り、将来は陸軍将校となりお国のために尽くすつもりで1年半の厳しい集団生活を送りましたが、終戦。故郷に帰り、旧制西大寺中学(現:西大寺高校)を経て、1948(昭和23)年に岡山市の旧制第六高等学校に進学。1949年(昭和24年)、学制改革により第六高等学校を母体の一つとして新制岡山大学が発足すると、「一緒に新しい大学を作ろう」という先生らの誘いに応じて、旧帝国大学などに転じることなく同大学に残りました。進学した新制岡山大学法文学部法学科では、西大寺中学の同窓で後に検事総長となる吉永祐介氏らと共に一期生として勉学に励み、在学中に国家公務員上級職(法律職)試験と旧司法試験に合格。卒業後は、国家公務員を志し、1953(昭和28)年、通商産業省(現:経済産業省)に入省しました。太平洋戦争は、無資源国の日本が米国から石油輸出を停止され、東南アジアの資源国を押さえるべく軍部が暴走したことを契機として起こったもの。戦後日本が世界で生き残っていくためには、貿易で国を発展させていくほかないとの思いから、貿易立国で中核的役割を担う通産省に魅力を感じての入省でした。

「国家公務員として、与えられた職務に誠心誠意取り組んでもらいたい。至誠天に通じる」―玉置敬三事務次官から若き官僚たちへの訓示を胸に執務を開始し、特許庁を振り出しに、通商局経済協力課、企業局企業第一課などで勤務することとなりました。企業局は、後に城山三郎の小説『官僚たちの夏』のモデルとなった佐橋滋が局長として特定産業振興臨時措置法案を推し進めていたところ。同法案は結果として廃案となったものの、課長補佐であった小長は、内閣法制局の審査を含む法案作成、国会議員等への事前説明等にも注力しました。その後、日本機械輸出組合ブリュッセル事務所長として欧州勤務を経て、企業局立地指導課に配属された小長。同課の課長を約二年務めた1971(昭和46)年7月、通商産業大臣秘書官を拝命します。当時の通産大臣は、かの田中角栄氏でした。

田中角栄氏との出会い

当時、角栄氏は、「コンピューター付きブルドーザー」と称されていることは知っていたものの、面識のなかった小長は、秘書官に就任するにあたり、角栄氏の蔵相時代の秘書官にアドバイスを求めました。「とにかく忙しい人なので、まずは付いていくこと」というのが、その答え。
小長は、そこから首相時代も含めて約3年半、秘書官として角栄氏に仕えることになりましたが、まさに波乱万丈の3年半であり、その経験は小長の人生にとって掛け替えのない財産となりました。

角栄氏が、多くの人の心を掴む類まれな人物であったことは、よく知られているところですが、通産省の官僚も早速、角栄氏のファンになりました。

まずは、通産大臣の就任あいさつ。大蔵大臣就任時には、「大臣室の扉はいつでも開いている。誰でもいつでも来てくれ」「できることはやる。できないことはやらない。―すべては、俺の責任だ」とあいさつして大蔵官僚をとりこにしましたが、通産省では、「郵政大臣のときも大蔵大臣のときも、事務次官は私より年上でありました。私は東大は出ていないが、出ていれば昭和16年前期入省組。今、通産省では事務次官が昭和16年後期入省なので、やっと先輩面ができるようになったのであります」と、着任早々、入省年次を重視する官僚の気持ちを鷲づかみにしました。

角栄氏の通産大臣としての仕事ぶりにも、目を見張るものがありました。たとえば、日米繊維交渉。当時、日本の繊維輸出による対米黒字が両国間の政治問題となっていましたが、「被害のないところに規制なし」という自由貿易の原則が通産省の立場。膠着状態に陥っていて、それまでの大臣の時代には解決の糸口が見えていませんでした。通産大臣に就任した角栄氏は、早速対米交渉に臨み、通産省の論理を事務方の期待以上に堂々と主張、随行員一同、感服したのですが、事態は好転することなく、米国側は対敵通商法による輸入制限を検討する状況に至りました。ここを潮時と見た角栄氏は、「君たちの言うとおりにしてきたが、状況はむしろ、悪化している」として、対処案を検討させました。結果、出てきた案の中に、輸出を抑えるために使われなくなる古い織機を代償として国が買い上げるというものがありました。もっとも、ネックになるのは、この案では当時の通産省の予算が4千億円程度であったのに、買上げに2千億円は必要ということ。ここで、角栄氏は、「問題は金額だけか。産業政策上の問題はないか」と事務方に尋ね、「ない」という答えを確認すると、その場で佐藤栄作首相に電話して「2千億円、宜しく頼みます」、ついで、水田三喜男蔵相にも電話し「総理も了承しているので、宜しく」、さらに、通産大臣の名刺を取り出して「2千億円宜しく頼む」と書いて大蔵省の主計官に届けさせました。結果、対米交渉も妥結。困難な懸案をわずか3か月ほどで片付けた、これぞ政治家という角栄氏の手腕に、小長はじめ通産省の誰もが驚くほかありませんでした。

日本列島改造論

田中角栄氏と機内にて
田中角栄氏と機内にて

「君、生まれはどこかな」
「岡山県です」
「そうか岡山か。あのあたりだと雪はロマンの対象だよな。川端康成の『雪国』みたいにトンネルを抜けたら銀世界で、どこかの料亭で美人の酌で一杯呑みながら雪を愛でているって感じだろう。だが、新潟生まれの俺にとって雪は、生活との闘いそのものなんだ」
小長が通産大臣秘書官に就任してしばらく後のやりとりでした。

小長自身、前二年間、立地指導課長として日本各地を飛び回り、日本の国土や地域の状況を見聞してきた経験が、秘書官としても役立つものと自負していましたが、角栄氏の言葉を聞いて、経験、実績の差を痛感。これではいけないと発奮し、角栄氏がそれまでに成立させた議員立法33本を読み直すとともに、1968(昭和43)年に角栄氏が政官の有志と共同で策定した『都市政策大綱』を精読して、角栄氏が描く政策の基本構造を頭に叩き込みました。

この『都市政策大綱』発表ののち、1972(昭和47)年に日刊工業新聞社から刊行されたのが『日本列島改造論』であり、小長はその取りまとめにも深く関与しています。政治家が本を出版する場合、ゴーストライターがほとんどの内容を書き上げて、本人は目を通すだけということも珍しくはないようですが、角栄氏は違いました。「代議士になって25年、この機会に自分の考えを本にまとめたい」ということで始まり、日刊工業新聞の記者10名と小長以下の若手官僚数名で章を分けて分担執筆することになりました。ビジョンを語る一日数時間にも及ぶ角栄氏のレクチャー、まさに熱弁が計四日間。小長を含む作業チームは、必死にその内容を聞き取り書き起こして、文章に取りまとめていきました。そのチームの中には、後に作家として活躍する堺屋太一(本名:池口小太郎)もいました。冒頭の「序にかえて」と最後の「むすび」は、角栄氏が自ら筆を取ったもの。角栄氏のビジョン、パッション、ミッションを凝縮したのが『日本列島改造論』だったのです。
出版された『日本列島改造論』は、角栄氏が総裁選立候補にあたってのマニフェストともなりました。

『日本列島改造論』のエッセンスは、「国土の均衡ある発展」。東京へのヒト、モノ、カネ、情報の一極集中を逆流させ、過密・過疎の同時解消、高速道路網・新幹線の整備等による全国一日交通圏の形成など、今日の地方創生の源流ともいうべきものでしたが、同書を取りまとめるにあたっては、記述の裏付けとなるデータやグラフ等、通産省の持ち合わせていない資料の提供を他省庁に頼む必要がありました。当時、省庁間の壁の高い霞ヶ関で、はたしてよその省庁は協力してくれるのか、小長が心配しながら他省庁の幹部に協力を仰ぐと、「あの角さんが構想を本にまとめるのか。それなら全面協力だ」との反応に、小長は角栄氏の霞が関での人脈の広さと人気の大きさを再認識しました。『日本列島改造論』で示された考えは現代にも通じるものがあり、初版から半世紀を経た今、田中角栄ブームを反映して、2023(令和5)年3月には『復刻版 日本列島改造論』が刊行されました。

日中国交回復交渉

角栄氏は1972(昭和47)年7月の自民党総裁選に勝利し、第64代首相に就任すると、小長は引き続き首相秘書官を拝命しました。もっとも、それまで首相秘書官は、大蔵省(現:財務省)、外務省、警察庁から各一人が慣例となっており、担当業務も決まっていました。そのため、「私は何をすればいいんでしょうか」と尋ねた小長に対し、角栄氏は、「決まっているじゃないか。列島改造だ」。実際には、以後、通産省のポストとなる広報が新たな担当分野として小長のために作られ、総理秘書官としての職務が始まりました。

角栄氏が首相に就任したのが7月でしたが、前年のキッシンジャー特別補佐官の電撃訪中に続いてその年の2月に米国のニクソン大統領が訪中。このため、当時の日本の最大の懸案事項は、中国との関係をどうするかでしたが、政界では岸信介元首相をはじめ台湾との関係を重視して、中国との国交正常化は「時期尚早」とする意見が強い状況でした。
このとき、角栄氏はひそかに小長にこう話したといいます。
「俺は『今太閤』などと言われ、もてはやされているが、こういう権力絶頂の時期にこそ、一番難しい問題に挑戦しなければならん」
この年の9月、自ら乗り込んで行って成果が上がらなければ生きては帰れないというほどの覚悟で角栄氏は訪中。訪中を急いだ理由の一つとして、角栄氏は「こういう問題は、毛沢東主席、周恩来首相という革命第一世代の健在なうちに解決しないと難しくなる」と述べていたそうです。実際、4年後の1976(昭和51)年には、毛主席・周首相ともこの世を去っています。
角栄氏ら訪中団は、日中戦争の反省を巡っての激しい応酬など、周首相らとの大変厳しく難しい交渉の末、日中共同声明に調印、日中国交正常化を果たします。
戦争中の日本軍の蛮行を挙げる周首相との激しい議論が一段落した時、こんな攻防もあったようです。角栄氏「自分は満州に陸軍二等兵として出兵したが、鉄砲は中国人民にではなく、北(ソ連)を向いていた」「中国も日本を侵略した。元寇のときだ」、周首相「あれは漢民族ではなくて元だ」。このあたりで周首相も矛を収めた。毛沢東主席とは、深夜「もう喧嘩は終わりましたか」に始まる会談が終戦ラッパとなり、共同声明に漕ぎ着けたとのこと。角栄氏に同行した小長は、交渉過程の議論の一部始終を角栄氏から臨場感たっぷりに聞かされ、得難い経験をしたと今も強く心に刻んでいます。
この訪中では、小長も随行員として中国側に紹介され、周首相とも握手を交わしました。その際に「あなたが日本列島改造論のゴーストライターですか」と言われ、中国はそこまで調べているのかと驚いたことも、忘れられないエピソードでした。

リーダーの資質

講演会(リーダーの資格と生き様)にて
講演会(リーダーの資格と生き様)にて

角栄氏が多くの人の心を掴む魅力ある人物であったことは、既に述べたところからも十分に窺えますが、角栄氏の人気の根底には、チームワークや人間関係を重視し、他者への気配りを欠かさない「人間力」があったと、小長は見ています。

小長によれば、角栄氏は常に「下から目線」で相手への気づかいを絶やすことなく、その姿勢は、首相になってからも変わることはありませんでした。また、常に努力を惜しまず、「努力なくして天才なし」「必要なのは学歴ではなく学問だ」として、首相在任中も真夜中の勉強を欠かしませんでした。特筆すべきは、人の顔と名前を誰もが驚くほど覚えていたこと。角栄氏に言わせれば、「君らは、相手の顔も見ないで名刺交換を急ぐから、人の名前と顔を覚えない」ということでしたが。

人の心を掴むということでは、このような出来事もありました。
ある朝、小長が角栄氏にその日のスケジュールを報告したところ、「君、今日は誰かの葬式がなかったか」との問い。その日は産業構造審議会という重要会議での大臣挨拶が予定されていたため、「葬儀への参列ではなく、こちらを優先しまして」と小長が答えると、角栄氏に静かにたしなめられました。
「結婚式ならば、君のその判断でいい。結婚式を欠席しても、別の日にいつでも会えるから。だが、葬式というのは、これが今生の別れなんだ。今日、重要な会議があるのなら、なぜ、昨夕のお通夜に私を行かせなかったんだ」
結局角栄氏は、葬儀場に急行してご遺体に挨拶をし、ご遺族にお悔やみを述べてから会議に出席しましたが、小長は自身の配慮が足りなかったと大いに反省させられました。このとき、人の縁を大事にする姿勢、気配りのきめ細かさこそ、リーダーに必要な資質であると小長は知りました。

また、優れたリーダーに求められる決断力と実行力も、小長は角栄氏を間近で見て学びました。
角栄氏は、「問題を先送りせず、挑戦し実行する」チャレンジ精神で、日中国交正常化という難問を見事に成し遂げましたが、小長たち官僚には耳の痛い語録もありました。「受験秀才は、やさしい問題をまず解き、難問は後回しにする。その習慣が社会人になっても直らない」。

先に挙げた例のほか、政治家・田中角栄の決断力・実行力がいかんなく発揮された場面は、枚挙にいとまがありません。小長の秘書官時代より前の1965(昭和40)年、大蔵大臣だった角栄氏が、解決策をめぐって議論がから廻りしている大蔵省、日銀、大手銀行の幹部たちを一喝して経営危機にあった山一證券への日銀特融の実施を決断し、証券不況による金融システムの動揺を防いだのは有名ですが、首相になってからも、1973(昭和48)年に勃発したアラブ諸国とイスラエルの間の第四次中東戦争に端を発するオイルショックへの対応、具体的には、石油需給適正化法と国民生活安定緊急措置法の制定、中、長期対策として脱石油、脱中東政策の実行、アフリカ大陸を除く主要資源国首脳との会談などに辣腕を振るいました。国益がぶつかる中でのその活躍ぶりは、後に、資源外交で米国の虎の尾を踏んだことがロッキード事件の背景ではないかという説を生むことになりました。

引き継がれるリーダーの在り方

角栄氏の首相辞任後、小長は通産省に戻り、経済協力部長や機械情報産業局次長などを歴任しました。この間、経済協力部長としては、民間の海外投資や政府開発援助(ODA)による国際経済協力を推し進め、サウジアラビアでの日サ合弁の石油化学プロジェクトの実現に尽力。また、機械情報産業局次長としては、かつて角栄氏が解決した繊維摩擦を彷彿とさせる対米自動車輸出問題にも取り組み、日本のメーカーによる自主規制で最悪の事態を回避するといったことがありました。
その後、大臣官房長、産業政策局長を経て、1984(昭和59)年、事務次官に就任。地方大学出身者が通産事務次官に就任したのは初めてのことでしたが、岡山大学一期生では、先に触れた吉永祐介検事総長のほか、奥山雄材郵政事務次官も誕生しています。
事務次官としては、プラザ合意から急速に進んだ円高への対処など、次々に発生する目の前の問題に取り組むほか、「世界の中の日本を考える懇談会」を事務次官の私的諮問機関として設けて日本の位置付けについて議論したこともありました。座右の銘は、フロンティアへの挑戦。小長は、通産省に戻ってからも、角栄氏から学んだことをいつも胸に、日本の国際競争力強化のためフロンティアを追い求め、我が国の技術開発・情報化政策を推し進めました。

1986(昭和61)年6月、33年間の官僚生活を終え、通産省を退官。日本興業銀行(現:みずほ銀行)の顧問を経て、1989(平成元)年にアラビア石油に入社、翌年6月に副社長に就任します。それから間もない8月、イラク軍がクウェートに電撃侵攻、湾岸危機が勃発しました。
クウェートとサウジアラビアの中間、クウェート国境から20キロ程度しか離れていない地域にあるアラビア石油のカフジ鉱業所には、日本人従業員約130人を含む約1800人の従業員が勤務していました。対策本部長となった小長は、イラク軍のさらなる侵攻がいつ始まるか分からず、外務省からも退避勧告が出されている状況下、従業員の安全を何としても確保しなければならない。しかし、石油の安定供給のためには、おいそれと操業を止めるわけにもいかないという、きわめて困難な判断を迫られました。

綿密な情報収集、分析によりイラク軍の即時侵攻はないと判断されるので、現地の操業維持に最大限の努力を払うべしとの会社の方針に従って、小長は、秘書と二人で自ら危険な現地へ飛びました。直行便は欠航となっていたため空路で羽田から台北経由バンコック、バンコックからアムステルダム行きの飛行機に乗り経由地であるサウジアラビアのダンマンで降りて、ダンマンからは車でカフジを目指しましたが、ダンマンで降りた際には、女性乗務員から悲壮な表情で「グッドラック」と送られることになりました。ダンマンからカフジへの高速道路では、戦車部隊にも遭遇。同行した秘書は緊張を隠せないようでしたが、小長は、「戦車の砲身の位置、見え隠れする兵士の様子から、戦闘体制でないとわかった。陸軍幼年学校で学んだことが生きた。人生どこで学んだことが役に立つかわからない」と振り返っています。
カフジでは、恐怖と戦う従業員一人一人と握手して、彼らを激励しました。他方で、サウジの石油相と面談し、「いざというときは会社独自の判断で退避する」旨を伝えて、理解を得ました。その後、開戦当日、サウジ石油省高官からの事前の電話連絡のおかげで、砲撃が始まった際には、従業員は前もって防空壕に退避。石油相に了解を得ていたこともあって、砲撃が一段落したのを見計らって、従業員は油井の元栓を閉めて全員避難することができ、一人の死傷者も出すことはありませんでした。角栄氏からリーダーの在るべき姿として学んだ、率先垂範の姿勢を示したのです。

法曹の道へ

島田弁護士との談笑風景
島田弁護士との談笑風景

1991(平成3)年、アラビア石油の社長に就任し、資源ナショナリズムが台頭する中、サウジアラビアとクウェートでの利権の延長に努めましたが、残念ながら交渉は難航し、サウジアラビアとの利権は2000(平成12)年に、クウェートとは2003(平成15)年に失効しました。そのような情勢から、2003(平成15)年、アラビア石油と関係の深い石油精製会社である富士石油との共同持株会社としてAOCホールディングスが設立された際には、同社取締役社長、2004(平成16)年同社相談役。相談役は、2008(平成20)年まで務めました。

その他、小長は、日本サウジアラビア協会会長、日本クウェート協会会長、石油鉱業連盟会長などのほか、日本経営者団体連盟(日経連)副会長などを務めました。

民間の経営トップとしてもリーダーシップを発揮してきた小長は、同社退任後、在学中に司法試験に合格していたことを活かし、法曹の道に進むことを選択します。
2カ月の研修を経て、2007(平成19)年に、76歳で晴れて弁護士登録。アラビア石油時代から顧問弁護士として親交を深めた、同郷岡山出身の当事務所代表弁護士、島田邦雄との縁もあり、現在は当事務所の客員弁護士となっております。

小長は現在も、年次を問わず当事務所所属弁護士と日々議論・交歓し、自身の経験を後進に伝えるとともに、一般財団法人 産業人材研修センターの理事長を務め、民間企業と公官庁の中堅幹部を集めた研修会を主催、官民交流・異業種交流を進めてわが国の発展に寄与すべく、精力的に活動しています。
そして、2022年(令和4)年春の叙勲で、瑞宝重光章を受章しました。